久しぶりにブログを書きます。

体調を崩し、療養するために新潟の実家に戻り早8ヶ月。
もうすぐ冬も本格的になります。

地元は新潟県十日町市
有名な豪雪地帯です。

自殺率も多く(大半はうつ病による者だと思われます)、数人の友人も自ら命を絶ちました。
もちろん、友人の家族も。

うつ病は怠けだという。
うつ病が怠けだったら、どんなにいいことか。がんばれば、治るのであれば、俺は死にものぐるいで努力する。

うつ病心の風邪だという。
でもそれは、違う。
うつ病は心の肺炎、という表現を見たことがある。
うつ病はそんなに簡単に治るものじゃない、これが僕の実感です。

僕も来年2月で34歳、立派なおっさんですw

でも、いまは毎月、市内唯一の精神科に通い、通院する毎日です。

今飲んでるメインのお薬はリフレックス(レメロン)です。
これがまた、すっごく寝まくってしまう薬で、一日16時間はねています。

僕はもっと一日一日、いろんなことがしたいんです。

夏にエビリファイを処方されたときは最悪でしたね。
まったく、僕には会いませんでした。
眠れないし、ろれつがまわらないし、アカシジアもでるし。

僕の今の診断名は「双極性2型」つまり、躁鬱病です。
1型とは違い、薬を服用することで、日常生活は送れるといわれています。

実家に帰ってきてから、母親はヘルパーの仕事で不規則勤務で疲労しながら、
毎日、食事をつくってくれて、すごく感謝しています。

母親は58歳ですが、つい先日、僕が「女性の平均年齢考えたら、お母さんはあと30年はいきられるんだから」
といったら、母も「私も人生これからだと思ってるのよ〜」って。

いつまでも、親の世話にはなっていられないし、病気をなおして、なにか仕事をしなくては
いけない、と思っています。

そこそこの大学でて、そこそこの一部上場の会社に勤めていた、という自分のプライドが
でも、邪魔をするんです。

田舎には、知的労働をする環境が少ないからです。
もちろん、ブルーワークの方々を否定しているわけじゃありません。

ただ、裕福でもない我が家なのに、東京の大学、しかも私立大学の理工学部という
大変なお金を工面してもらって、大学を卒業し、会社にはいり、、、でもうつ病発症で挫折した。
それがすごく心ぐるしいんです。

地元には、東京に出ずにずっと地元で生活してきた友達が何人かいます。
僕は四方八方が山に囲まれ、冬は豪雪で、田舎で何もないこの町を出たかった。
だから、大学は関東にしました。
でも、地元にずっと根付いて生活している人だって多くいる。

実家にかえってきてから、地元もけっこう変わっていました。
新しい道路ができていたり、大型商業施設が2つもあったり。

でも、ファミレスも居酒屋チェーンもありません。
パチンコ・パチスロのお店だけはすごく多いです。

新潟県のTVのCMも毎日パチのCMばかりでうんざりしています。
テレビ東京が懐かしいです。
深夜アニメも好きだったので、これはけっこうきついですね。

たまに友達と遊ぶとき、ごはんを食べたり、知り合いの家にいったり、
DVDレンタル店にいったり(ツタヤなんてありません。田舎ですから)

なんか、話がずれちゃいましたね。。

えっと、いま、僕は、レメロンという薬を服用していて(この薬は今年の10月から新薬ではなくなり一ヶ月処方可能になりました)
かなり、睡眠時間が長いです。
っていうかながすぎですw

もっと毎日やりたいことがあるのに、日中もすこしぼーっとしているし、
こんなんで、本当によくなるのかなーって思ったりもします。

労災について
 僕は昨年の12月から品川労働基準監督署の方と相談をはじめ、2010年1月に労災申請を行いました。
資料もたくさん書きましたし、新潟に引っ越してきた私に聴取を行うため、東京から十日町まで
わざわざきてくれました。
ですが、そこでは、初診時にかかった医者が話しに応じない、資料も出さない、という前代未聞な状態で、
とても正確に労災の調査はできていないなと思いました。

案の定、先月きたのは「不支給決定」
不支給の場合でも、60日以内であれば「再審査請求」を行うことができます。
で、書面を提出し、受理されました。

今回、主張したかったのは、入社後、約1年間、仕事も全然なく、毎日途方にくれて、眠れなくなったときに
通院した友愛クリニックの初診日を起点として調査するのではなく、

通院はずっとしていましたが、1年ほどで調子はもとにもどり薬もほとんど飲まない状態になっていました。
箱いっぱいの薬がたまっていました。引っ越し時に全て処分しましたが。

会社が某S社と契約を結ぶために某S社の認定試験をうけなければならなくなったことが
一番の原因だと考えています。
業務命令の受験ですから、落ちるわけにはいかない
かなりのプレッシャーでした。
また当時、自分の行っていた業務に不満があり、半期ごとの目標管理面談では、いつも開発プロジェクトにいきたい、
異動させてください、といっていましたし、記入もしていました。

が、課長から、いつも、「そこだけは修正しておいて」という扱いでした。

僕は某S社の試験に合格すれば、S社の案件に参加できるんじゃないだろうか?と
わずかな期待を胸に必死で勉強し、4つの資格を取得しました。
第一回試験でのアーキテクトの合格者は5名。
私も含まれていました。
課長からは、「お前が合格してくれたおかげでたすかったよ。部署から一人も合格者がいないなんてあれだからな〜」
って。

試験合格後、資格を取得し、某S社の仕事に携われると思っていたのですが、課長からは意外な言葉がでてきました。
「うちの会社で部署異動ってさ、本当むずかしんだよ」
以前、部署異動の相談をしたときも、転職したら?的なこともいわれていました。

このとき、もう精神的に限界がきていました。

余っていた、処方されていた、デパスレキソタンを服用しても全然ねむれなくなるようになり、
通院時にそのことを話し、本格的に抗うつ剤による治療が開始されました。

トレドミン投与されてから、ふらつきがすごく、会社でも壁に手をついたりして
ふらふらふらふらしていました。

そして、起死念慮、感情の起伏など症状が悪化し、自分から課長に
休職したい旨をつたえました。

そして、部長からの指示で会社のカウンセラーと面談し、即、休職が決定し、
その後1年8ヶ月、休職しました。

で、復帰して3ヶ月は時短勤務。
定時勤務可能になったとたん、プロジェクトにかりだされました。
なぜなら、私が復帰するにあたり、いきなり親会社での常駐はNGだろうということで
部署で唯一の自社ビルでの業務を行っている課に転属となったわけですが、
不稼働人員を抱えてられる課ではなかったからです。

かりだされたプロジェクトは3年ほどの長いものになると聞かされていました。
しかし、最大の難点は僕をそのプロジェクトに入れるとき、うちの課長がうつ病について
一切説明していないことでした。
うつ病だとわかれば、拒絶されるかもしれない、という課長の配慮だったのだとはおもいますが、
結局、毎回、自分がうつ病であること、定時間内勤務しか許されていない、ということを
自分で説明しなければいけませんでした。

プロジェクト開始後、1ヶ月半ほど、経った頃、急性胃腸炎になり、ほぼ一月やすみまくりました。
有給は30日以上あったので、問題はなかったんですが、プロジェクトリーダーである課長さんの
心証はかなり悪く、最終的には3ヶ月経過する時点で
「おれはさ、うつ病なんて、知らないし、そんな部下ももったことないし、もういらないんだよね」
「おれは、みんなで一緒に遅くまでがんばって残業するのが大事だとおもってるんだよ、
だから、君がいくらお願いしても、もう要らないから」と。

一応、一部上場企業で、管理職には部下のメンタルヘルスに関する講習も受けているはずなのに、
なんなんだろう。。
自分を全否定されたような気がしました、いや実際されたわけですが。

で、仕事がなくなり、しばらく、また本社に戻って雑用かなーって思っていたですけど、課長から
「今日の昼に本社にこい。面談があるから」と。

そこで、課長から「もう後はないんだからな」といわれました。

稼働予定のプロジェクトでは某S社の案件を行うことになっており、某S社の全資格取得してる僕が
候補にあがり、面談もそつなくおわり(うつ病の件はまたふせたまま)、参画することになりました。

しかし、勤務時は顧客先常駐となり、通勤で片道2時間近い時間がかかり、かなり体力的にもきつきったです。
そして、最終的にうつが悪化し、休みがちになり、休職も一回しかできないため、退職することとなりました。

自分の課の課長は以前、メンタルヘルスの社員と仕事をしてて、良い印象がなく、私を課に入れるのも、あまり快く思ってなかったらしかったです。
「ぶっちゃけ、おれは、メンタルの問題のあるやつとは仕事したくないと思っていたけど、○○と仕事をできて本当によかったと思っている」
そういってもらえました。

会社をやめる日、帰り際、部長にも挨拶はしましたが、
「休職期間、傷病手当もらってたわけだし、これでちゃんちゃんってことで」と、労災申請すんなよ?
的な言葉をもらって、ちょっと、すっきりしない感じの最後でした。

あと、会社の備品を全て返却し、退職届けも出し、帰る直前、新人社員研修でお世話になった一つ上の当時の人材開発部の先輩が
ダッシュでかけつけてきてくれて、お別れの挨拶をしました。
書類の事務手続きを行っていたら、僕の名前で退職届がでたのをみて、すぐきてくれたみたいです。

退職してから1年は本当、薬をいろいろためしたりで、エビリファイを服用したときは、全然ねむれず、アカシジアやどもり、ふるえがひどく、
ジェイゾロフトをためしたときは、まったく食欲がなくなり、復職後にでぶった体重も元にもどるほどでした。
ルジオミールは眠くて眠くてしょうがなかったです。
結局、アモキサントレドミンパキシルを飲むようになった気がします。
細かいことは忘れちゃった。

で、毎日ひまで、ネットしてるか、本屋いって立ち読みしたり、筋トレしたり、失業給付をもらいにいったり、なんて
生活を1年おえたとき、躁状態になってたんでしょうね。すごく、元気な感じになっていました。

で、駅前でたまに猫の里親会ををしていたのですが、よくみていました。
猫はいつか飼いたいなーっておもっていて。

でも、その当時住んでいたアパートはペット禁止で、でも、どうしても飼いたくて、オーナーさんに頼んでもらったりしたんですが、
だめでした。

で、無職だし仕事もしないといけない、っていうのもかさなって、引っ越しを決断しました。

最初は出張PC修理を考えていたんですが、ツイッターで「個人事業主になりました!」ってつぶやいたら、Oさんからお返事をもらい、
仕事を一緒にしませんか、というありがたいお話を頂いて、SOHOで在宅勤務でプログラムを書いたりーの、環境構築しーの、などの
お仕事を1年ちょっとしていました。

ですが、まあ、僕の仕事の効率もわるかったんでしょう、仕事の対価を時給ではなくて、成果物を買い取る、という形にしましょう、
ということになり、自分でもネットのサービスで不満をもっていたTODO管理ツールを作ろうという話になりました。

しかし、その後、うつ病が停滞時期に入り(それまではプチ躁状態だったと今は思います)
ずっと、仕事ができなくなり、楽天ビジネスといういわゆるお仕事紹介サイトに登録したりしてました。

2009年のある日、とつぜん、TELがあり、HPの作成を依頼したい、と。
で、担当の方と直接電話して、詳しい話を伺ったのですが、
僕「ご予算はおいくらくらいをお考えですか?」
お客様「5万円でお願いします」
僕「5万円という金額は正直なところ、本来なら受けない価格なんですが、今回、御社のHP作成を私の実績として
宣伝に使わせていただいてもよければお受けいたします」

と、話がはこび、、カットオーバーの月曜日を迎えた前の六日間まで具体的な話が全然まとまってなかったです。
で、金曜日になり、担当者の方から急遽、メールで商品説明、画像など急いでおくってもらい、ずっとサイト構築作業を
続けていました。
でも、細かい部分のやりとりが電話同士だとなかなかうまく、いかず
お客様「これから、そちらにいきますんで一緒にやりましょう」
と、午前0時に所沢から私の事務所兼自宅に事務の女性の方ときて、
朝まで寝ずに作業を行い、なんとか完成を向かえました。

そのときの、達成感はすごくよいものでした。
しかし、サイト開設三日後くらいに担当の方から連絡を頂き、
「上司からイメージに合わないから閉鎖してくれ」ということになり、
担当の方もかなり謝っていただいて、こちらも申し訳なくなるくらい。
結局、閉鎖となったため、実績として紹介しようにも紹介できず、5万円と
36時間ぶっつづけでやった疲労感だけが残った仕事でした。

この仕事を最後に今、今日まで仕事はしていません。

いまは、親に寄生虫のごとく、すべてお任せしてる状態で
34になる社会人としては、とても情けなく思います。

今後、どうすれば、いいのか。
ゆっくり考えていきたいです。

あと、調剤薬局に高校のときの同級生の女性がいるんですよ。
結婚して姓もかわってました。
これは、、正直、きまづくていやですねえ。